タンゴ、大西洋を渡る:ブエノスアイレスからパリへ、移民が生んだ音楽の軌跡
序論:越境する音楽としてのタンゴ
音楽は古来より、人、モノ、情報の移動と共に国境や文化の壁を越えて伝播し、各地で独自の変容を遂げてきました。シルクロードを通じて東西の楽器や旋律が交流した歴史は、その象徴的な例と言えるでしょう。しかし、音楽の越境は古代に限りません。近代以降のグローバリゼーションの波の中で生まれた多くの音楽もまた、国際的な交流と文化変容の物語を内包しています。
本稿では、19世紀末に南米の港湾都市で生まれ、20世紀初頭にパリで洗練され、世界に広まった音楽、タンゴに焦点を当てます。タンゴは、単なるダンス音楽としてだけでなく、多様な文化が交錯する移民社会の産物であり、その国際的な伝播は、音楽がどのように異文化を受容し、自己を変容させ、さらに発祥地へ影響を逆輸入するかを示す興味深い事例です。
タンゴはどのようにして生まれ、いかにして大西洋を渡り、世界的な現象となったのでしょうか。そして、その過程でタンゴという音楽はいかに変化し、どのような文化的な意義を持つようになったのでしょうか。本稿では、タンゴの誕生から国際的な広がり、そしてそれがもたらした文化的な影響について、歴史的・社会的な背景と共に考察を進めてまいります。
タンゴの誕生:移民都市のるつぼが生んだ音楽
タンゴがその原形を成したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアルゼンチンのブエノスアイレスとウルグアイのモンテビデオというラプラタ川流域の港湾都市でした。この時代、これらの都市はヨーロッパからの大量の移民を受け入れており、社会構造は激変していました。イタリア、スペイン、フランス、ドイツなど様々な国から人々が流入し、古くからのクリオーリョ(現地生まれのヨーロッパ系住民)文化、そして少なからぬアフリカ系住民の文化が入り乱れる、まさに文化のるつぼ(melting pot)状態でした。
タンゴは、このような多文化が混じり合う環境、特に港湾地区の酒場、ダンスホール、共同住宅(コンベンティーリョ)といった場所で自然発生的に生まれました。初期のタンゴは、当時の流行音楽であったハバネラ(キューバ)、ポルカ(ポーランド)、マズルカ(チェコ)、ワルツ(オーストリア)といったヨーロッパの音楽、ミロンガ(アルゼンチン、ウルグアイのフォルクローレ)、カンドンベ(ウルグアイのアフリカ系音楽)などの南米の音楽、そしてイタリアの移民たちが持ち込んだカンツォーネやオペラの断片などが影響を与え合い、融合していったと考えられています。
初期のタンゴは、ギター、フルート、バイオリンといった身近な楽器で演奏され、歌詞にはスラング(ルンファルド)が多く用いられ、やや低俗なものと見なされる傾向がありました。これは、タンゴが社会の周縁部にいる人々、すなわち移民や港湾労働者、娼婦といった人々の間で育まれた音楽であったためです。しかし、その原始的なエネルギーと独特のリズムは、次第に都市の幅広い層に浸透し始めていました。初期の代表的な楽曲としては、作者不詳のものが多く、「エル・チョクロ(とうもろこし)」のように後に歌詞が付け加えられたものも存在します。
パリへの飛翔:大西洋を越えた「発見」
20世紀に入り、タンゴは予期せぬ形で大西洋を渡り、国際的な注目を集めることになります。その中心となったのが、当時の世界の文化の中心地であったフランスのパリでした。1900年代の終わり頃から、アルゼンチンの音楽家やダンサーたちがパリを訪れるようになり、彼らが持ち込んだタンゴが徐々に知られるようになりました。
タンゴがパリで爆発的な流行となったのは、特に1910年代のことです。パリの社交界は新しい刺激を求めており、アルゼンチンから来た異国的で情熱的なタンゴは、彼らを魅了しました。当初はブエノスアイレスのスタイルそのままに演奏・ダンスされていましたが、パリの音楽家や社交界の嗜好に合わせて、より洗練され、劇場やサロンで上演可能な形式に変化していきました。衣装やダンスのステップも、パリのモードを取り入れてエレガントなものへと変わっていきます。
パリでの成功は、瞬く間にヨーロッパの主要都市(ロンドン、ベルリン、マドリッドなど)に波及し、タンゴは国際的なダンス音楽としての地位を確立しました。この「パリでの発見」は、アルゼンチン本国にも大きな影響を与えました。それまで社会の一部で低俗視されていたタンゴが、ヨーロッパの洗練された文化として逆輸入され、アルゼンチンのエリート層にも受け入れられるきっかけとなったのです。アルゼンチンからの音楽家、例えばアンヘル・ビジョルドのような人々がパリで名声を得ることで、タンゴはアルゼンチンの国民的な音楽としてのアイデンティティを確立する一助ともなりました。
国際化がもたらしたタンゴの変容と多様化
タンゴの国際的な伝播は、その音楽自体にも大きな変容をもたらしました。最も顕著な変化の一つが、バンドネオンの導入と普及です。バンドネオンは元々ドイツで生まれたアコーディオンに似た楽器ですが、20世紀初頭にアルゼンチンに持ち込まれ、その哀愁を帯びた音色がタンゴの雰囲気に極めて合うとして急速に普及しました。特にパリでの洗練化の過程で、より豊かな表現力が求められるようになったことが、バンドネオンをタンゴに不可欠な楽器とした一因と考えられています。
また、国際的な受容の中で、タンゴの演奏形態も変化しました。初期の小編成から、より大規模な「オルケスタ・ティピカ(典型的オーケストラ)」へと発展し、バイオリン、バンドネオン、ピアノ、コントラバスといった編成が標準となっていきます。これにより、より複雑で技巧的なアレンジが可能となり、タンゴの音楽的な表現力は格段に向上しました。オスバルド・プグリエーセのような楽団は、この時期にタンゴを発展させた重要な存在です。
歌詞のテーマも変化しました。初期の港湾地区の生活やルンファルドによる表現に加え、国際的な名声を得る中で、故郷への郷愁、失われた愛、人生の哀愁といった普遍的なテーマが歌われるようになります。カルロス・ガルデルのような歌手は、洗練された歌唱と表現力で、タンゴを世界の舞台へと押し上げました。
さらに、タンゴは伝播先の文化と融合し、多様な形態を生み出しました。例えば、フィンランドでは独自の叙情的でメランコリックな「フィンランドタンゴ」が生まれ、国民的な音楽として定着しました。これは、タンゴが単にコピーされるだけでなく、受容地の文化や感性に合わせて再創造される、異文化交流のダイナミズムを示しています。アストル・ピアソラによる「ヌエボ・タンゴ(新しいタンゴ)」は、ジャズやクラシック音楽の要素を取り入れ、タンゴをコンサート音楽へと進化させましたが、これもタンゴの国際的な広がりの影響を受けた革新と言えます。
結論:グローバルな文化交流が生んだ音楽
タンゴの物語は、音楽がどのようにして特定の地域の社会・文化的な背景から生まれ、いかにして国際的なネットワークを通じて伝播し、そして伝播先での受容や文化との融合を通じて変容していくかを示す典型的な事例です。ラプラタ川流域の移民たちが持ち寄った多様な音楽の要素が混じり合い誕生したタンゴは、20世紀初頭にパリという文化のハブを通じて世界の舞台に躍り出ました。
この国際的な伝播は、タンゴにバンドネオンの導入、オーケストラ化、歌詞のテーマの深化といった音楽的変容をもたらし、アルゼンチン本国においてもタンゴの社会的位置づけを大きく変化させました。また、フィンランドタンゴのように、各国で独自の発展を遂げたことは、音楽の国際交流が単なる一方的な影響ではなく、双方向的で創造的なプロセスであることを示しています。
タンゴは、移民、都市文化、技術革新(レコードやラジオ)、そしてグローバリゼーションといった近現代の社会・文化的な要素が複合的に絡み合って形成され、発展してきた音楽です。その歴史を紐解くことは、音楽を通じて文化がどのように出会い、影響を与え合い、新たな創造を生み出すのかという、異文化交流の複雑で豊かな様相を理解するための一助となるでしょう。タンゴは、まさに音のシルクロード、現代版グローバル文化交流の証人と言えるのではないでしょうか。