音のシルクロード

ウードからリュートへ:アンダルシアにおけるイスラーム音楽の伝播とその影響

Tags: アンダルシア, イスラーム音楽, ヨーロッパ音楽, 楽器史, 文化交流, リュート, ウード

導入:交差する音楽の道、アンダルシア

地中海を挟んでヨーロッパとアフリカ、そして西アジアが向き合うイベリア半島、特にアル=アンダルスと呼ばれたイスラーム支配下の時代は、文化、科学、哲学、そして芸術において、東西文明が交錯する稀有な場所でした。音楽も例外ではなく、この地ではイスラーム世界由来の音楽が、土着およびキリスト教世界、ユダヤ教世界の音楽と出会い、豊かな変容を遂げました。本稿では、このアンダルシアにおける音楽交流の中でも特に象徴的な事例として、中東を発祥とする弦楽器「ウード」が、いかにしてヨーロッパを代表する楽器の一つである「リュート」へと姿を変え、ヨーロッパ音楽史に深く影響を与えたのかを歴史的・音楽的な視点から考察いたします。

アンタルシアにおけるイスラーム音楽の到来と発展

西暦711年にウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻して以来、数世紀にわたりイスラーム勢力はアンダルシアを支配しました。特にコルドバを首都とした後ウマイヤ朝(756-1031年)の時代は、最盛期を迎え、東方イスラーム世界から多くの学者、芸術家、音楽家が移住しました。彼らはダマスカスやバグダッドといった文化の中心地で培われた知識や技術をアンダルシアにもたらし、現地の文化と融合させることで、独自の洗練された文化を築き上げました。

音楽の分野においても、東方イスラーム音楽の理論や楽器、演奏スタイルが導入されました。その中でも、短棹撥弦楽器であるウードは、アラブ世界において既に理論的な洗練が進み、重要な役割を担っていました。ウードは、その豊かで多様な響きと、独奏から伴奏まで幅広い用途に適応できる柔軟性から、アンダルシアの宮廷や都市文化において急速に普及しました。

ズルヤーブ:アンダルシア音楽史上の重要人物

アンダルシアにおける東方音楽の影響を語る上で避けて通れないのが、9世紀前半にバグダッドからコルドバに移住した音楽家、アブー・アル=ハサン・アリー・ブン・ナーフィー、通称「ズルヤーブ」です。彼はバグダッドの音楽界の巨匠イスハーク・アル=マウスィリーの弟子でしたが、その才能を恐れた師やカリフとの間に軋轢が生じ、アンダルシアの後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン2世の招きに応じてコルドバに移り住みました。

ズルヤーブは単なる演奏家にとどまらず、作曲、音楽理論、演奏教育において革新をもたらしました。彼はウードの改良を行ったと伝えられています。伝統的な4弦に加えて、新しい5弦目を追加し、これは音楽的な表現力や音域を拡大するものでした。また、彼は演奏技術や音楽理論体系を確立し、コルドバに音楽学校を設立して多くの弟子を育成しました。彼の洗練された音楽スタイルや理論は、アンダルシアにおける音楽の規範となり、後世に大きな影響を与えました。ズルヤーブの存在は、単に東方の音楽を移植しただけでなく、アンダルシアの地で独自の音楽文化を開花させた象徴的な出来事と言えます。

ウードからリュートへ:楽器の伝播と変容

ウードはアンダルシアから、レコンキスタの進行や商業活動、十字軍などを通じて、徐々に地中海世界の他の地域、特にイタリアやフランス、スペイン北部のキリスト教王国へと伝播していきました。ヨーロッパに伝わったウードは、「アル・ウード(al-ʿūd)」というアラビア語名に由来する「リュート(lute)」という名称で知られるようになります。

ヨーロッパに伝わったリュートは、現地の音楽的ニーズや技術的制約に応じて、いくつかの変化を遂げました。最も顕著な変化の一つは、撥(ピック)ではなく指で演奏するスタイルが普及したことです。これにより、より複雑なポリフォニー(多声音楽)の演奏が可能になり、ルネサンス期におけるリュート音楽の隆盛に繋がります。また、構造的な面でも、フレットが追加され、調弦や音程の正確性が向上しました。本体の形状や材質にも地域的な違いが見られるようになりますが、基本的な洋ナシ型の胴と曲がったネック、ペグボックスといった特徴はウードから引き継がれています。

このウードからリュートへの変容は、単なる楽器の形態変化に留まりません。それは、イスラーム世界の単旋律やマカーム(音階・旋律型)に基づく音楽理論が、ヨーロッパの旋法やポリフォニーといった異なる音楽理論体系と接触し、相互に影響を与え合った過程を示すものです。

音楽理論と形式への影響

アンダルシアにおけるイスラーム音楽とヨーロッパ音楽の交流は、楽器だけでなく、音楽理論や作曲形式にも影響を与えた可能性が指摘されています。例えば、イスラーム世界で発展した詩形と音楽の結びつき、特にムワッシャハー(Muwaššaḥ)やザジャル(Zajal)といった合唱と独唱を組み合わせた形式は、イベリア半島や南フランスで発展したトルバドゥールの音楽や、聖母マリアを称えるカンティガス(Cantigas)に影響を与えたと考えられています。これらの形式に見られる反復句(リフレイン)と連(スタンザ)の構造や、叙情的・物語的な内容には、アンダルシアの音楽的遺産が見て取れます。

また、イスラーム世界で発展した音程や音階に関する知識も、ヨーロッパの音楽理論家たちに影響を与えたという研究もあります。アラブの音楽理論家たちは、古代ギリシャの音楽理論を受け継ぎつつ、独自の音階体系や音程関係を構築していました。これらの知識が翻訳などを通じてヨーロッパに伝わる中で、後の音律論や和声理論の発展に間接的ながら寄与した可能性は否定できません。

結論:アンダルシア音楽交流の遺産

アンダルシアは、音楽史における重要な交差点でした。この地でイスラーム音楽、特にウードを中心とした楽器や理論、演奏スタイルが、ヨーロッパ音楽と出会い、相互に影響を与え合いました。ウードがリュートへと姿を変え、ヨーロッパ全土に広まったことは、その最も象徴的な事例です。ズルヤーブのような音楽家が果たした役割、詩と音楽の融合に見られる形式的な影響、そして楽器の構造的変化は、この文化交流の深さを示しています。

アンダルシアにおける音楽交流の遺産は、レコンキスタによってイスラーム支配が終焉を迎えた後も完全に失われることはありませんでした。その音楽的要素や精神は、イベリア半島、特にアンダルシア地方の民俗音楽や後のフラメンコ音楽の中にも、痕跡として生き続けているという見方もあります。アンダルシアで繰り広げられた音楽の物語は、異文化が接触する場で新しい音楽が生まれ、国境を越えて広がり、後世に影響を与え続ける「音のシルクロード」の一つの極めて重要な事例と言えるでしょう。この歴史は、音楽が単なる娯楽ではなく、文化を運び、人々を結びつけ、変容を促す強力な力を持っていることを改めて私たちに教えてくれます。